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  さて、第3回目は、“愛媛県玉串料訴訟”です。

 テーマは「政教分離」。

 平成11年第18問・平成13年第13問・平成16年第15問に出題されています。


 「政教分離」の判例と言えば、まず思い浮かぶのが“あの判例”ですよね?

 ほら、あれですよ!あれ!!

 そう、“津地鎮祭事件”。

 こちらも、平成13年第13問・平成15年第1問・平成16年第15問と3回も出題されています。

 “津地鎮祭事件”の方は皆さん思い浮かぶと思って今回は、あえて“愛媛県…”選んでみました。

 これらとともに、「政教分離」三羽烏として“箕面忠魂碑・慰霊祭訴訟”があります。

 平成の間に出題された「政教分離」の判例はこの三つですので、あわせて押さえておくとよいでしょう。


 本判決は大きく分けて『支出行為の違法性』『違法な支出をした知事らの損害賠償責任』の二つの部分から成り、出題されるのは前者の方です。

 前者は更に、『政教分離違反となる規範』『あてはめ』の二つに分かれます。

 『政教分離違反となる規範』は例の流れです。

 すなわち、「理想は完全分離、だけど現実は関わりを認めざるを得ない。そこで、限界の設定」という流れです。

 『あてはめ』では、玉串料・供物料・献灯料の性質や、玉串料等の支出に対する一般人の評価などを考慮して、支出行為が政教分離に反するとしています。

 知事らの、

 @県民の要望があること、
 A世俗的になされる香典やさい銭の奉納と変わりがないこと、
 を理由とする「玉串料等の奉納が社会的儀礼にすぎない」旨の主張に対して、

 最高裁は、これらを検討のうえ斥けています。







 愛媛県が、

 

   (1)愛媛県の東京事務所長が、靖國神社の挙行した例大祭の際に玉串料、

 (2)愛媛県の東京事務所長が、靖國神社の挙行した「みたま祭」の際に献灯料、

 (3)県生活福祉部老人福祉課長が、護國神社の挙行した慰霊大祭の際に供物料、


 を、それぞれ県の公金から支出した。

 これらの行為が憲法20条3項・89条等に照らして許されない違法な財務会計上の行為に当たるかどうかが争われた地方自治法242条の2第1項4号に基づく損害賠償代位請求住民訴訟。










 一 事実関係及び訴訟の経過

        (略)

 二 本件支出の違法性に関する当裁判所の判断

 1 政教分離原則と憲法二〇条三項、八九条により禁止される国家等の行為


 憲法は、二〇条一項後段、三項、八九条において、いわゆる政教分離の原則に基づく諸規定(以下「政教分離規定」という。)を設けており、政教分離原則とは、一般に、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味するものとされている。

 国家と宗教との関係には、それぞれの国の歴史的・社会的条件によって異なるものがあるが、我が国では、明治憲法の下における信教の自由の保障は不完全なものであったため、憲法は、明治維新以降国家と神道が密接に結び付き種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至ったのである。

 また、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存する我が国の宗教事情の下で信教の自由を確実に実現するには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結び付きをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であった。

 これらの点にかんがみると、憲法は、政教分離規定を設けるに当たり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものと解すべきである。



 しかしながら、元来、政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であって、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。

 そして、国家が社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するに当たって、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れることはできないから、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近く、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れない。

 これらの点にかんがみると、政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があることを免れず、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないことを前提とした上で、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが問題とならざるを得ないのである。



 右のような見地から考えると、憲法の政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教とのかかわり合いを持つことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。



 右の政教分離原則の意義に照らすと、憲法二〇条三項にいう宗教的活動とは、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。

 そして、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。



 憲法八九条が禁止している公金その他の公の財産を宗教上の組織又は団体の使用、便益又は維持のために支出すること又はその利用に供することというのも、前記の政教分離原則の意義に照らして、公金支出行為等における国家と宗教とのかかわり合いが前記の相当とされる限度を超えるものをいうものと解すべきであり、これに該当するかどうかを検討するに当たっては、前記と同様の基準によって判断しなければならない。



 2 本件支出の違法性

 そこで、以上の見地に立って、本件支出の違法性について検討する。

 (一)


 ・神社神道においては、祭祀を行うことがその中心的な宗教上の活動であるとされていること、
 ・玉串料及び供物料は、各神社の挙行する恒例の祭祀中でも重要な意義を有する例大祭及び慰霊大祭の際に神前に供えられるものであること
 ・献灯料は、これにより靖國神社の祭祀中最も盛大な規模で行われるみたま祭において境内に奉納者の名前を記した灯明が掲げられるというものであること


 から、いずれも各神社が宗教的意義を有すると考えていることが明らかなものである。

 これらのことからすれば、玉串料等の支出により、県が特定の宗教団体の挙行する重要な宗教上の祭祀にかかわり合いを持ったということが明らかである。



 そして、既にその宗教的意義が希薄化し、慣習化した社会的儀礼にすぎない起工式とは異なり、神社自体がその境内において挙行する恒例の重要な祭祀に際して右のような玉串料等を奉納することが、一般人によって社会的儀礼の一つにすぎないと評価されているとは考え難い。

 そうであれば、玉串料等の奉納者においても、それが宗教的意義を有するものであるという意識を大なり小なり持たざるを得ない。

 また、本件においては、県が他の宗教団体の挙行する同種の儀式に対して同様の支出をしたという事実がうかがわれないのであって、県が特定の宗教団体との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持ったことを否定することができない。

 これらのことからすれば、地方公共団体が特定の宗教団体に対してのみ特別のかかわり合いを持つことは、一般人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており、それらの宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすものといわざるを得ない。



 知事らは、本件支出は、戦没者の慰霊及び遺族の慰謝という世俗的な目的で行われた社会的儀礼にすぎないものであるから、憲法に違反しないと主張する。

 確かに、県が公の立場において靖國神社等に祭られている戦没者の慰霊を行うことを望む県民の希望にこたえるという側面においては、本件の玉串料等の奉納に儀礼的な意味合いがあることも否定できない。

 しかしながら、たとえ相当数の者がそれを望んでいるとしても、そのことのゆえに、地方公共団体と特定の宗教とのかかわり合いが、相当とされる限度を超えないものとして憲法上許されることになるとはいえない。



 ちなみに、神社に対する玉串料等の奉納が、世俗的目的で贈られる香典との対比で論じられることがあるが、香典は、故人に対する哀悼の意と遺族に対する弔意を表するために遺族に対して贈られ、その葬礼儀式を執り行っている宗教家ないし宗教団体を援助するためのものではないと一般に理解されており、これと宗教団体の行う祭祀に際して宗教団体自体に対して玉串料等を奉納することとでは、一般人の評価において、全く異なるものがあるといわなければならない。



 また、知事らは、玉串料等の奉納は、世俗的目的でなされるさい銭の奉納と同様のものであるとも主張するが、地方公共団体の名を示して行う玉串料等の奉納と一般にはその名を表示せずに行うさい銭の奉納とでは、その社会的意味を同一に論じられない。  そうであれば、本件玉串料等の奉納は、たとえそれが戦没者の慰霊及びその遺族の慰謝を直接の目的としてされたものであったとしても、世俗的目的で行われた社会的儀礼にすぎないものとは言えない。



 以上の事情を総合的に考慮して判断すれば、県が本件玉串料等を靖國神社又は護國神社に前記のとおり奉納したことは、その目的が宗教的意義を持つことを免れず、その効果が特定の宗教に対する援助、助長、促進になると認めるべきであり、これによってもたらされる県と靖國神社等とのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものであって、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動に当たると解するのが相当である。

 そうすると、本件支出は、同項の禁止する宗教的活動を行うためにしたものとして、違法というべきである。



 (二) 

 また、靖國神社及び護國神社は憲法八九条にいう宗教上の組織又は団体に当たるところ、以上に判示したところからすると、本件玉串料等を靖國神社又は護國神社に奉納したことによってもたらされる県と靖國神社等とのかかわり合いが相当とされる限度を超えるものと解されるのであるから、本件支出は、同条の禁止する公金の支出に当たり、違法というべきである。



 三 被上告人らの損害賠償責任の有無


 以上のとおり、本件支出は違法であるから、更に進んで、被上告人らの損害賠償責任の有無について検討する。



 知事は、東京事務所長・県生活福祉部老人福祉課長らに委任し、又は専決により処理させたのであるから、その指揮監督上の義務に違反し、故意又は過失によりこれを阻止しなかったと認められる場合には、県に対し右違法な支出によって県が被った損害を賠償する義務を負うことになる。

 知事は、靖國神社等に対し、東京事務所長・県生活福祉部老人福祉課長らに玉串料等を持参させるなどして、これを奉納したと認められるというのであり、本件支出には憲法に違反するという重大な違法があること、地方公共団体が特定の宗教団体に玉串料、供物料等の支出をすることについて、文部省、自治省等が、政教分離原則に照らし、慎重な対応を求める趣旨の通達、回答をしてきたことなどをも考慮すると、その指揮監督上の義務に違反したものであって、これにつき少なくとも過失があったというのが相当である。

 したがって、知事は、県に対し、違法な本件支出により県が被った本件支出金相当額の損害を賠償する義務を負う。



 これに対し、東京事務所長・県生活福祉部老人福祉課長については、地方自治法二四三条の二第一項後段により損害賠償責任の発生要件が限定されており、本件支出行為をするにつき故意又は重大な過失があった場合に限り県に対して損害賠償責任を負うものであるところ、これらの者は、いずれも委任を受け、又は専決することを任された補助職員として知事の前記のような指揮監督の下で本件支出をしたというのであり、しかも、本件支出が憲法に違反するか否かを極めて容易に判断することができたとまではいえないから、これらの者がこれを憲法に違反しないと考えて行ったことは、その判断を誤ったものではあるが、著しく注意義務を怠ったものとして重大な過失があったということはできない。

 そうすると、これらの者(東京事務所長・県生活福祉部老人福祉課長ら)は県に対し損害賠償責任を負わない。


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